PROFILE - MORE

2010-05-26/27
羽場さんPROFILE
池の上陽水(いけのうえようすい)
 
本名 羽場達彦(はば たつひこ)
熊本県出身のミュージシャン・詩人・小説家・エッセイスト
1965年4月1日生まれ(戸籍上は4月2日)、О型。
 
 農林省の官僚だった父親の転勤先熊本で生まれる。生後、相次ぐ転勤や実母の死に伴い、東京、新潟、熊本、横浜、東京と転校を繰り返す(いじめた事はあったが、あった事は一度もなかった)。伯母でもある養母を「新潟のおばさん」と慕っており「箸の持ち方を教わった」とプロフィールには必ず記している。伯父は錦鯉の鯉師をしていたが、博打の一発が当たらずおばさんの洋裁に食わせてもらっていた。豪快な性格で遊泳禁止区域まで陽水を背中に乗せて泳ぎ、陽水を突き落として笑っていた。それと熊本市営プールで溺れたのがきっかけで極端な水泳恐怖症となる。
 小学校1、2年では美術を得意とし、熊本の絵画展の賞を総なめしていたが、担任からは「子供らしくない」との酷評を受ける。
 体育は好きでなかったが足だけは速く、小学校1年から中学3年までリレーの選手であった。
 テレビっ子ではなく、ドリフターズは子供心にも「くだらない」と思い、その時間がたまらなく嫌だった。これが彼のお笑い嫌いの始まりだと思われる。
 蔵書家(2万冊はあった)の父が日本・世界文学全集を与え、小学校3年で読破、ほとんど意味が判らなかったが、森鴎外「雁」とヘミングウェイ「陽は又上る」はその当時でも面白かったと言う。小学校高学年からは推理小説を好み、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、横溝正史、森村誠一のファンであった。
 小学5・6年を過ごした中野区立北原小学校では大槻ケンヂと同級生で、オーケンファンの間では有名な「お前の目は腐った魚だ!事件」を目の当たりにした。
 オーケンとはお楽しみ会で「納豆ババアの復讐」という創作劇を披露する。脚本と主人公(僕)は池の上、大槻は納豆ババアの役だった。
 淡い初恋相手だったいとこの影響で長谷川きよしやサイモン&ガーファンクルを、同級生で後に大槻ケンヂのジャケットデザインを手がける占部克也(2008年没)にディープ・パープルやレッド・ツェッペリン等を教わり、ハードロックに目覚める。大槻ケンヂにキッスとエンジェルの入ったカセット・テープをプレゼントし、これが大槻ケンヂのロックの目覚めだったと後に本人から言われる。ことなく3人はロック仲間となった。
 最初に買ったレコードはキング・クリムゾンの「クリムゾンキングの宮殿」で次第にイエスやピンク・フロイド、タンジェリン・ドリーム等プログレッシブ・ロックに傾倒、同時にシンセサイザーに興味を示し、富田勲の影響から「これからは電子音楽の時代だ!」とピアノorシンセサイザーでシンセを買ってもらうという選択をし後にとても後悔する。カセットレコーダーを改造して多重録音をしたり、同時に作曲も開始する。バッハのインベンションを稚拙にしたような曲であった。
 音楽の菊池先生は中田佳直や宮沢賢治の星巡りの唄などの現代歌曲を多く取り入れたり、ショスタコビッチを歌わせたりと楽しみの多い授業だった。
 中野区立第11中学校に入学。急にうるさいのが嫌になりフォークに目覚める。さだまさし、因幡晃、風、あんべ光俊、永井龍雲など叙情派フォークを好み、高田渉や岡林信康や吉田拓郎は好きではなかった(メロディーが綺麗でないから)。特にさだまさしは全ての音源と書物、事務所の表札を盗み持つほどのファンであったが、中学2年の時、突然全てが嫌いになり当時好きだった女の子に全部をあげてしまう。「偽善者ってのはああいう奴だと思った」と後に公言している。文芸部の部長を歴任し自作の詩や短編小説を文集や文化祭で発表する。当時は海外のSF小説を好み、レイ・ブラッドベリやクリストファー・プリーストのファンであった。
 暴走族の先代の威光で恐れられていた中学校だったので、学校の中は平和だったし、当時は「突っ張り」が普通だったので、中ランにボンタンではあったが、喧嘩をしたことはなかった。生徒会の役員をしていたが、弁論大会で副会長とともに飛び入り参加をし、さんざん暴言を吐いて、生徒会担当の先生から殴られる。
 いつか転落願望が芽生え、そのような絵や詩をを多く書く。実際、英語の授業中に二階から飛び降り喝采を浴び捻挫をするが、何故か先生には気付かれなかった。
 軟弱な学校に入りたいと思い、青山学院高等部に入学、同じクラスに尾崎豊がいた。早速バンドを組むがすぐに解散。自己のバンドを作る。クリスマスライブに2本誘われたので、1つを尾崎に譲る。それが尾崎の最初の新宿ルイード・ライブとなった。そのときの自筆のフライヤーを後にヤフオクに出展、80万円で落札されるが40万円にまけてあげる。自身は原宿クロコダイルで甲斐バンドやストーンズなどを演奏した(特に好きではなかった)。クロコダイルの出演の条件の一つに何故か「女子の手作りのお弁当をPAさんに持ってくる事」というのがあったが意味は不明。
 お坊ちゃま学校の校風にあまり馴染めず、遅刻と恋愛を繰り返す。
 当時はモダンジャズ部に在籍、先輩に矢野顕子がいるが、ジャズは全く教わらず、CHARやジェフ・ベックを演奏する。
 文学はアラン・シリトー、川端康成や中原中也、梶井基次郎などを好んだが、当時の担任が現代国語担当で、教科書は使わず、吉本隆明や山下洋輔などを題材にし、代わりにテストは7割漢字だったため赤点を繰り返す。個人的に好かれていたので、成人してからも遊びに行った事があった。
 付属校から男子でただ一人就職率のまるで悪い英文科に推薦入学する。
 サザンやピチカートを排出したベター・デイズなどたくさんの音楽サークルがあったが、ファッション研究会に入り、音楽担当となる。いわゆる選曲に興味を持ち始める。
 新譜を聞き漁り、サンプラーで音源を作り、ショーでは好評を博すが、やはり自作の念を諦めきれず、打ち込みで作曲を再開する。当時の陽水はオーディションに受かったものだけがレコードを作れると思い込み、インディーズのバンド活動等はかけらもしなかった。
 大学を辞め不思議な縁でアパレル会社に入社し、生涯の兄貴&師とする岡本雅彦に出会う。
 彼の影響でレゲエに感化され、オープン当時の青山MIXに通い、ミュートビートにも大きな影響を受ける。
 レゲエの他に良く聞いたのはスタイル・カウンシル、プリファブ・スプラウト、レオン、ラッセル、ドリーム・アカデミーなど。
 打ち込みの音源があるコンテストの関東大会まで行ったが「私的」という事で落とされ、陽水では人気の高い「夏至」もドリカムの事務所のオーディションでは5段階評価で詩が3、曲は2だった。
 作詞部門で引っかかった会社もあったがTUBEのB面の歌詞を作る意欲はなかった。
 輸入アパレル会社に転職、バブルの恩恵を受け、毎晩六本木、麻布を飲み歩く。
 その会社の専務と共同で会社を立ち上げるがすぐに解散。
 当時通っていた下北沢のジャズバーの雇われマスターとなる。
 ジャズバー時代は下北沢マサコ、渋谷音楽館、吉祥寺メグなどに通う。
 好きなジャズ・ミュージシャンは、チェット・ベイカー、ケニー・バレル、トミー・フラナガン、チャールズ・ミンガス、ケニー・バロン等。チェット・ベイカーに至っては彼のリトグラフを買うほどのファンだった。
 ジャズバーのオーナーが精神を患い閉店、通っていたレストランバーに転がり込む。
 麻雀と競馬漬けの毎日だったが、音源はちまちま作っていた。
 一時ソムリエを志し試験にも合格したが、フランス料理の上下関係の厳しさに入っていくことが出来ず、世田谷池の上にカレー屋兼ショット・バーの「銀のさじ・シルバースプーン」を出店。行列が出来るほどだったがカレーはすぐ売り切れ、酒類はあまり出ず売り上げが伸び悩む。
 
 2010年5月27日永眠。